世代を超えて受け継がれてきた絨毯

エスファハーン(ESFAHAN)・イスファハーン(ISFAHAN)

 

エスファハーンはテヘランから南に約420km、イラン国土のほぼ中央に位置するオアシス都市で、約2,600年の古い歴史を誇り、数多くの遺跡や建築物が今も残っています。現在は世界遺産にも登録されている美しい町です。1597年、ペルシアの民族的統一を果たしたサファヴィー朝、シャー・アッバース一世によって、首都に定められ、政治、経済、文化の中心地として、最盛時には世界の半分(エスファハーン・ネスフェジャハン)とうたわれるほど隆盛を極めました。

ペルシャ絨毯を知る上で、イラン(ペルシャ)の歴史についての知識は不可欠。
詳しくは西アジア史専門の書籍やサイトに譲ることにして、

原エラム期(前3200~前2700年)

シュメール文明とほぼ時を同じくしてスーサ(イラン南西部、現在のフゼスタン地方)に興ったイラン最古の文明。
原エラム人は城塞都市を築き、エラム文字の前身といわれる原エラム文字を用いていました。

カシャーン(KASHAN)

テヘランとエスファハーンの中間に位置するカシャーンの歴史は古く、アケメネス朝時代から人が住んでいました。テペ・シアルクという紀元前5,000年頃の彩文士器文化の遺跡が残されています。
13世紀には、ここでペルシアを代表する素晴らしい陶器や彩袖タイルがつくられ、工芸の町として知られています。サファヴー朝のシャー・アッバース一世にこよなく愛された町として知られ、この地にアッバース大王は葬られたといわれています。
カシャーンは伝統工芸も盛んでサファヴィー朝初期、すでに王宮の工房があったといわれています。絨毯を始め絹織物、磁器、タイル商人の交易によりペルシアをヨーロッパに紹介したのはカシャーンの商人です。

サファヴィー朝衰退後のカシャーンは他の産地と同様に絨毯作りも停滞したようですが、その水準はペルシア絨毯の最高到達点の指標ともなったようです。20世紀初め、イギリスの影響が強い時代に本土より良質なマンチェスターウールが持ち込まれました。この当時の絨毯産業はサファヴィー朝の繁栄とは比べものにならないほど衰退したなかで絨毯作りが始まったことが絨毯復興のきっかけになりました。俗に言うマンチェスター・カシャーンで、それが、伝説のひとつ『モクタシャム』という職人の作品がヨーロッパで高く評価され、モクタシャム工房は上質のシルクの絨毯もつくったといわれています。

手織絨毯の世界 minatokucarpet

タブリーズ(TBRIZ)

イラン北西部を占めるアゼルバーイジャーン地方の中心地タブリーズは、東西文明が交差する要衝の地にあり、イラン最大の商業都市として古くから栄えたところです。
カフカズ(コーカサス)山系の南、標高1,367mの高原にタブリーズの町はあります。夏は涼しく、冬は寒く厚い雪におおわれてしまいます。この地は、いろいろな意味で、イランで最もヨーロッパ世界に近かったといえるでしょう。

古くから東西交通の重要な位置を占め、その歴史はササン朝時代にはじまり、3世紀にはアゼルバーイジャーン、14世紀にはイル・ハーン国の首都ともなりました。19世紀にはイランの商業の中心地として、タブリーズの商人は近代ペルシア絨毯の中心的役割を担うこととなりました。タブリーズでは、西洋を意識する絨毯作りにより積極的にデザイン開発が行われました。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、伝説の工房「ハーッジ・ジャリーリー」が出現しました。カシャーンのモクタシャム同様、タブリーズの上質な絨毯は、ハーッジ・ジャリーリーの名で取引されています。
タブリーズは大量の生産体制を組むため他の地域のような出機の女性による家庭生産でなく、工場生産が中心となり、時間労働にも耐えられる男性が織りを担当しました。そのため女性の細い指に替わるフックのついたかぎ針(フックバフテ)のようなものを用いてパイル糸を通しています。

第4代カリフ(イスラム教の最高指導者)であったアリ

ケルマーン(KERMAN)

イラン高原、キャヴィール砂漠の南、ルート砂漠の西に位置するケルマーンは、東西交通の要衝の地であり、3世紀ササン朝ペルシアのアルダシール一世によって建設されたといわれています。
インドヘのルートの中継点にあたり、昔から侵略と虐殺の凄惨な歴史を歩んできた町でもあります。作物の望めない不毛の地で、古くから織物や刺繍が発達しました。
アフガンの国境とも近いため、18世紀初頭(1722年)のアフガン族進入に際して、壊滅的な被害を受けましたが、絨毯づくりの長い伝統は失われることなく、細々ながらも受け継がれてきました。

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